大切の定義が何かによるけど、
例えばそれの対象が人だった場合に
自分の生き方に大きな影響を与える人のことを大切と言うのならば
そう定義するということは受け身の人生であったから、
大切な人が居なくなる前に私が居なくなりたいと思うのは必然なんだろうけど、
そう思うことが必然な人の場合、
その受けた影響を、人に与えたいと思ったら、無意識に与えてしまっていたりする人は、
生きる意味をそこに見出せたりして。
逆に受けたことをそのまま自分の中に昇華できると思ったら、
生きる意味にはならない。
“えーしぬ”とか“しぬんだが”とか“いやそれはしね”とか、ノリで言える社会になって
それをノリの一環として軽く言えたり、受け流せる自分もいて、
はたまた、本当にしにたい(これはしぬ、という、具体的な行動というよりはこの世から消滅したい願望によるもの)と具体的に思考した時に、そんな軽々しく言える人はいいよな、と思う自分もいたり。
生き物と共存しているにおいて何度も議論される生死の正誤の話だけれども、
産まれてから関わった人の考えや発言も一つの要因になるのではと考えた夜の私のつぶやきであって
全く意味はないのだけれど。
別にこの世から離れることは決して生きている状態の人間からは悪ではないし、(それによる被害が生存生物に及ぶ場合を除く)それを悪とする組織を悪とする意味もないなと。
なんか思った。