よわねはき。

綺麗な文章は書かないです。コトバオキバ。

正悪はお前の中に。

大切の定義が何かによるけど、

例えばそれの対象が人だった場合に
自分の生き方に大きな影響を与える人のことを大切と言うのならば
そう定義するということは受け身の人生であったから、

大切な人が居なくなる前に私が居なくなりたいと思うのは必然なんだろうけど、

そう思うことが必然な人の場合、

 

その受けた影響を、人に与えたいと思ったら、無意識に与えてしまっていたりする人は、

 

生きる意味をそこに見出せたりして。

 

逆に受けたことをそのまま自分の中に昇華できると思ったら、

 

生きる意味にはならない。

 

“えーしぬ”とか“しぬんだが”とか“いやそれはしね”とか、ノリで言える社会になって

それをノリの一環として軽く言えたり、受け流せる自分もいて、

はたまた、本当にしにたい(これはしぬ、という、具体的な行動というよりはこの世から消滅したい願望によるもの)と具体的に思考した時に、そんな軽々しく言える人はいいよな、と思う自分もいたり。

 

 

生き物と共存しているにおいて何度も議論される生死の正誤の話だけれども、

 

産まれてから関わった人の考えや発言も一つの要因になるのではと考えた夜の私のつぶやきであって

 

 

全く意味はないのだけれど。

 

別にこの世から離れることは決して生きている状態の人間からは悪ではないし、(それによる被害が生存生物に及ぶ場合を除く)それを悪とする組織を悪とする意味もないなと。

 

なんか思った。

思い出って、綺麗になるからめんどくさい。

 

 

 

 


私の場合、思い出なんか美しくなるもので。

憎悪、嫌悪、憤怒さえも今の私の血肉と捉えれば、途端に愛おしくなるものです。

きらきらの思い出になったどろどろの過去は、

これから先更に艶々と研磨されることでしょう。

 


切り取り箇所を変えてみれば、

見るも聞くも驚愕するほど変貌するのは有名な話で、

時として角度を調節すれば、

怨念も愛、因縁は憂。

 


おとといポチった小さな鞄は、

君から貰ったお手紙を、

大事に大事に持ち運ぶための、

また数年越しに君に会える淡い期待。

などと言っていても、

きっと雑な私は、本来それを入れるはずだった場所に三つ折りのお財布などをぎゅうぎゅうに詰めて、

なんならもはや直接小銭を入れてコンビニに繰り出すことでしょう。

 


片手に持った缶チューハイも、

両手で支えた大きなグラスも、

経験として思い出として、たくさん重なるものがあるのです。

繰り返す動作には、

それだけ多くの思い出があって、

それがこれから先も続きながら、

艶々と研磨されることでしょう。

 

 

大層

 

 

わたしは大層なにんげんではないので

 

“こういう人間でありたい”

 

という理想の中に生きています。

 

 

 

なので私から発する言葉はきっと、

“わたし”から出ている言葉ではなく、“こうでありたいわたし”から出ている言葉なことが多々あります。

 

大層なのはわたしではなく、

 

私が中にいるこの大層なわたしなのです。

 

 

 

しかしこの大層なわたしもまた、

 

きっと大層ではないのです。

やさしいことば

 

 

“そんな事考えられる人なかなかいないよ!”

 

“今の言葉で感銘を受けました。”

 

“無理せず程々に頑張ってね。”

 

 

 

それってひとりってことじゃん。

 

わかってるよ。

私の中で留まらせて欲しかった。

どうかわかってるなんて思わないで。

リピートの終止符。

 

 

 

好きな人がいる。

 


その人には私に無い素直さがあって、

思いを口に出すことが苦手な私にとって憧れである。

常に周りに人が居て、いつもひとりぼっちの私を“みんな”の中に入れてくれた。

やりたいことはやりたいと言って周囲を巻き込んで形に出来る発信力で、わたしはいつも笑顔になれた。

 

 

 

苦手な人が増えた。

 


その人は自分の思い通りにならなければ大きな音を立てて怒って、

騒音を避けて生きる私にとって哀傷である。

1人では何も出来ない人で、ひとりぼっちになることを恐れて常に誰かに連絡をとっている。

 


やりたいことはやりたいと言って自分の力不足に目を向けず、刃物な言葉でわたしはいつも傷付いた。

 

 

 

好きな人がいる。

 


その人は常に天から物事を見る人で、

だれのことも否定せずに常にわたしを肯定してくれる。

いつも理解が広くて、誰に言ってもわかってもらえぬ私の情緒をにこにこしながら共感してくれた。

怒りの感情がない人で周囲も皆評価していた。初めて分かち合える感覚的な感情で、わたしはいつも笑顔になれた。

 

 

 

苦手な人が増えた。

 


その人は常に人を見下していて自己愛が強く、

そのくせ自己評価が極端に低かった。

誰に対しでも共感しているふりをして、場面に応じて言うことが二転三転する人だった。

自分の意思が弱い上に、それを優しさと唱えていた。

全てを打ち明けた私にとっては心底裏切られた気持ちになった。

 

 

 

好きな人がいる。

 


誰に対しても分け隔てなく笑顔で接して、

いつもひとりで居るわたしにも気さくに挨拶してくれる。

こんな私にも興味を持って、色んな方向から話を引き出してくれる。

人と話すことが苦手な私にとって、話題の尽きないこの人は、きっとこの先何年経ってもずっと笑顔でいられると思わせてくれた。

 

 

 

苦手な人が増えた。

 


簡単に言えばその人は、秘密を守れない人だ。

その人にだけと特別話した事柄も、翌週には私の知らないみんなが知っていた。

噂話は形を変えて、元も子もない話となって、

事実と異なる話でわたしは、孤独なわたしは孤独となった。

 


好きな人がいる。

 


頭が良くてスタイルが良くて大きな口で笑う人だ。

みんながその人のことが好きだ。

どんな人かは知らない。

その人も、わたしがどんな人かは知らない。

聞いてこない。

聞かない。

 

 

悲しくなる時も苦しくなる時も人間だからもちろんあって、そんな時に、

今日みたいに雨が降った時に、雨だなやだな、だけじゃなくて、傘に当たる粒の音とか、毎秒変わる窓の模様とか、2人で入る傘のあったかさとか、弱めに踏む水溜まりの表面の力とか、そういう所に五感を集める事が好きで。

 

憂鬱な気持ちに憂鬱な天気が重なっても、

感覚が心打つ傘になって、

無性に会いたくなる人が居て、

ずっと居たい音の中に居て、

すっごく寒いのにすっごくあったかい気持ちになれたりするので、雨は好きです。

 

 

重い荷物がある時は別ね。

 

 

長靴とかもう

履かなくなっちゃったけど、

ちっちゃい時はぶかぶかの長靴でおっきい水溜りプールに入るの好きだったな〜。

 

 

東京じゃあんまり心地いいものには出会えないけど

香雨って言葉があるくらい、

あの、雨の香り。いい匂い。

小瓶に詰めたいね〜。

 

 

さっむ、お手手冷たいね〜。

 

 

悴んだ指から送信

 

 

悪い癖。

 

 

最近何度も母に注意を受けるのだけれど。

私、扉をきっちりと閉められない。

クローゼットとか引き出しとか、傘立てとかトイレとか、食器棚とか窓とか、いつも少しだけ開いちゃう。何でだろうね。心の扉は開けない癖に。

 

昔から閉鎖空間が苦手だった。

車とか飛行機は今もだし、鍵のかかった部屋とかかくれんぼで入った土管とか。

でもお姉ちゃんとシール交換したクローゼットの中とか、怖い映画を見た後のお布団の中とか、悪い事した後にかくれたカーテンの中とかは好きだった。

 

まあそれが言い訳にはなりませんね。

ちゃんと閉めましょう。